子供の頃から大好きだったものがあります。
それがあったかい泥です。
保育園の時の砂場での泥遊びに夢中でした。
今回はそんな泥遊びについて語っていきます!
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ぬくい泥
私が通っていた保育園の砂場は、穴を掘ると水が染み出しきて簡単に泥が出来ました。
ひなたでその泥をこねているとだんだんと泥があたためられて、液体と固体の中間のようになります。
人肌くらいに温められた、ぬくい泥に手をつっこんで、泥だんごを作ったり、トンネルを開通させて、向こう側からやってくる友達の手と触れ合ったりしました。
そのこそばゆい感じが気持ちよくて気持ち悪くておもしろかった!
何がいるかわからないぬくい泥は子供の体には興味深々でいつまでもこね回していました。
服を泥だらけにしてやめられない中毒性の高い遊びでした。
はたから見たら何がおもしろいのかわからないと思います。
なんで土を掘ると水が出るのかとか、あっためられた泥がどうして気持ちいいのかとか、
理由なんてよくわからないけど、その中に手を突っ込むことがすべてを忘れて熱中するくらいに好きでした。
日がかたむき泥がだんだん冷えてくると泥あそびはその熱を失います。
泥のぬくさが何よりドロ遊びの醍醐味だと思います。
肩まで泥の中につっこんで、口に砂が入りそうになって、服を泥だらけにして、夢中で遊んでいました。
真剣でした。
時間が限られているし、子供の手ではけっこう掘らないと水は出てこないので、あのぬくさにたどりつけるのかと、今日もあの気持ちいぬくもりを感じられるのかと必死で穴を掘っていました。
水が湧き出るまでの穴掘りはただの苦行でした。
水が湧いてきても、その水が冷たすぎたり天気が悪いと、あの気持ちよさにたどり着けません。
地面の熱と太陽で温められたぬるぬるとした泥が最高に気持ちいいです。
そこに辿り着くまで必死で遊んだ記憶ああります。
鬼ごっこ
似たような体験で、鬼ごっこの時に感じた時間が水あめのようねっとりと、高密度で流れていく感覚があります。
多分フローだとおもうのですが、なんで辿り着けたのか未だにわかりません。
シンプルな遊びで、全員が楽しんでいること、そして遊んでいるレベルが一定であることが、水あめのような時間は発生させる条件みたいです。
夕暮れ時、缶蹴りや鬼ごっこをしていると突然訪れます。
永遠に感じられるほど濃密な水飴のような時間。
最高に楽しくて気持ちよくて、脳がジンジンしました。
時間と空間を超えて自分の体が拡大したようなパキーンっと瞳孔が開いて、その行為に120%集中できました。
手足が伸びて普段はできないような動きが軽々できてしまう。
ただどうやっても1人では辿り着けない場所。
それはエッチとかよりも楽しくて最高に満たされる時間でした。
何に満たされていたのかわかりません。光としか呼べない輝きで満たされていました。
1人では辿り着けないことがその光に拍車をかけます。
今もどこかであのときの感覚を求めている気がします。
子供のように純粋な衝動でしか辿り着けない場所だと思います。
損得勘定のないあそびの中だから輝く、形に残らない勲章のような時間。
あの輝きは目の奥に残っています。
年を重ねるごとにあの時の光が強くなっているような気がします。
もうそこには辿り着けないことはなんとなくわかっています。
だからこそあのときは輝くのだろうなぁっと思います