退屈がころすのは人ではなく神じゃないかなという話です。
(中学生から20代半ばくらいまで)
脱いでやればいいんでしょ、ってゲームがほとんどだったのですが、なかには作品が作りたいんだけど、エロくないと売れないという理由でエロを取り入れているものもありました。
中でも私が好きだったのは、表現的に18禁にしておかないと発表できない作品でした。
その1つにALICESOFTの鬼畜王ランスとうソフトがありました。
※以下ランスシリーズのネタバレをふくみます。
ランスシリーズには神様が出てくるのですが、憎み争い合うのを見るのが大好きな神でなんなら平和になるとその種をほろぼしてしまいます。
いろいろな種族を滅ぼして、もっとも争いに長けた人という種が現在神様のお気に入りです。
というのが物語のバックストーリーなのですが、1つの真理をついているんじゃないかなと思います。
神を生命全部としたとき、命が争いを望むのではないかという話です。
たとえば『野菜』ってすずしくて風通しが良い場所じゃないと腐ります。その腐るという現象が生命にとっての死なので、そうならないように適度に空気を循環させる必要があって、その風こそが暇つぶしということなのではないかなと思います。
安定、停滞するとゆるやかに生命は腐ってしまうので、そうならないためにかき混ぜる必要があって、その効率的なかき混ぜ方が争いだったのではないかなと思います。
生命が争いを望むのはそういった理由なんじゃないかなと思います。
だから生命はドラマチックな方が、生き残ってきたのではないかと思います。
弱い種の方がドラマを生みます。いやがおうにも挑戦しなければ生き残れません。
生命の本質は安定さと不安定さの両輪だと思います。
安定しきれば死んでしまいます。不安定すぎても種を保つことができません。
適度に安定して、適度に不安定であらなければならないと思います。
そこでこの世界でもっともすぐれた生命体である人類は、効率的な安定と不安定の発生方法として大規模な争いを定期的に起こすようになりました。
種として腐らないように風を自分達で作り出す方法を生み出しました。
ただ戦争は核によって一定の収まりをみせました。
寿命はどんどん伸びています。
そこで必要になるのが新しい風です。
生命をゆさぶるために新しいメディアがどんどん生まれています。
なにが言いたいのかと言いますと、結局自分のできることを一生懸命やるしかないのですが、たまにこういった生命を喜ばせるにはという視点も大事なのかなと思って書きました。
自分はなんのために生きているのか。
この体を喜ばせるためなのですが、この体だけ飯食って維持していても、どこかで満たされない思いがあります。
命全体に風を入れないと楽しくないわけです。
(となると私の最高のエンターテイメントは人を喜ばせるこなのでしょう)
争いの時代があり平和がある。物質的価値が大事な時代があり、現在精神的価値にだんだん重要さが置かれるようになっています。
振り子が揺れて価値が変動して、なんとか飽きないようこの体の奥の生命を退屈させないように動いてみようと思います。